はじめに
桐島聡 容疑者とみられる男の身柄が、警視庁によって確保されたことが報告されています。この男性は逃走から約50年後に神奈川県内の病院で発見され、現在、警視庁公安部が本人確認を進めている状況です。
桐島容疑者を名乗る男についての情報は、警察に提供された後、警視庁公安部が特定作業を急いで行っています。警視庁は、本人であるかどうかを確認するために事情を聴いているとのことです。
桐島容疑者は、1974年に東京・丸の内の三菱重工ビルの玄関前に置かれた爆弾が爆発し8人が死亡、380人以上がけがをした事件などを起こしたとされる「東アジア反日武装戦線」のメンバーで、1975年に爆発物取締罰則違反の疑いで指名手配されていました。
ちなみに藤巻はそういう事件があったらしい程度しか知らなくて、顔写真みて、あぁこの人か!ってなりましたね。ちょっと僕も知識が不足しているので調べながらの記事になります。
桐島聡容疑者が病院で発見された経緯
偽名での入院
桐島聡容疑者は、もともと別人の名前を使用して神奈川県内の病院に入院していました。しかし、2024年1月25日に突然、病院の関係者に対して自分が桐島聡であることを名乗り出たとのことです。
末期がんを患ってた
末期がんを患っており、深刻な状態で「最後は本名で迎えたい」と話したとされています。病院側から神奈川県警に通報された後、公安部に情報が寄せられ、捜査員が本人に事情聴取を行いました。
入院していた病院は「湘南鎌倉総合病院」
入院していた病院は「湘南鎌倉総合病院」とされています。捜査関係者によれば、病院で警察官や警察車両の目立った動きが見られたとのことです。
この発見により、約50年にわたる逃亡生活が終わり、警察は桐島聡容疑者の身柄を確保しました。現在、警察は桐島聡容疑者の身元の特定を急いでおり、DNA型の判定も進めているとのことです。
【追記】2024/1/29 桐島聡容疑者の死亡が確認された
桐島聡容疑者と名乗る人物が死亡したことが報じられています。桐島容疑者と名乗るこの人物は、神奈川県内の病院で末期の胃がん治療を受けていたところ、2024年1月29日の朝に死亡が確認されました。
捜査関係者によると、この人物は数十年前から「内田洋」という名前で神奈川県藤沢市内の土木関係の会社に勤務していました。彼は「最期は本名で迎えたい」と述べ、事件当時の詳しい状況についても説明していたとされています。
警視庁は、この人物が実際に桐島聡容疑者であるかどうかをDNA鑑定などで確認を急いでいましたが、死亡によって法の裁きを受けることはなくなりました。捜査に長年携わった警視庁公安部の元捜査員は、この人物が桐島容疑者である可能性があることについて心苦しく思っていると述べ、事件の全容解明に彼の証言が鍵となることを望んでいました。
調べものをしていたところ、キーワードで『死んだ』といったワードが関連付けされていたので、調べてみると👆のようでした。最期は本名で迎えたいと言う言葉に込められた思いはどのようなものだったのか気になりますね・・・。
東アジア反日武装戦線とは?
アナーキズム系の武闘派極左テロ集団(かなり過激なテロ集団ってことみたい)
東アジア反日武装戦線は、1970年代に活動した日本のアナーキズム系の武闘派極左テロ集団です。この集団は、反日亡国論やアイヌ革命論などを主張し、三菱重工爆破事件をはじめとする連続企業爆破事件などを実行しました。1974年には昭和天皇に対する暗殺計画「虹作戦」も計画しましたが、これは未遂に終わりました。
大道寺将司によって結成
この組織の源流は、法政大学文学部史学科在学中の大道寺将司によって結成された「Lクラス闘争委員会」で、その後「研究会」として発展しました。この集団は、「日本帝国主義」の象徴となるものを爆破することで大衆に訴えるカンパニア闘争を行いました。具体的には、興亜観音・殉国七士之碑爆破事件、総持寺納骨堂爆破事件、風雪の群像・北方文化研究施設爆破事件などを実行しました。
「東アジア反日武装戦線」という名称が決まる
1972年12月に「東アジア反日武装戦線」という名称が決定し、1973年からは本格的な武装闘争に備え、爆弾の開発や活動資金の貯蓄に努めました。また、自らの主張を世に発信するために、小冊子「腹腹時計」の執筆・出版にも着手しました。
後に日本赤軍と合流
この組織は警察庁によって「極左暴力集団」と呼ばれ、一部メンバーは日本赤軍に合流しました。最終的には、1975年に主要メンバーが一斉に逮捕され、以降、獄中闘争や裁判、日本赤軍による事件など、複雑な動きを見せながら活動は終焉しました。現在では、この組織の歴史は、過激な左翼運動の一環として日本の社会に重要な影響を与えたものとして語られています。
参考...東アジア反日武装戦線
なぜこのような極端な行動をおこしたのか?
- 反日革命とアジア解放: 組織は、日本がアジア諸国に対して行った歴史的な侵略と搾取に対する反省と反省が不十分であると感じていました。彼らは、アジアの植民地支配や戦争責任に対する日本国内の無反省な態度に強い怒りを感じ、これに対抗するために反日武装闘争を行うことを目的としていました。
- 新植民地主義的経済侵略に対する抵抗: 彼らは、戦後の日本が経済的な利益のためにアジア諸国に対して新植民地主義的な行動をとっていると考え、そのような企業や組織に対する攻撃を通じて、アジア諸国の解放を目指していました。
- アナーキズムや極左思想の影響: 当時の世界的な学生運動や社会運動の中で、マルクス・レーニン主義、アナーキズム、その他の極左思想が広がっていました。これらの思想に影響を受け、組織は既存の政治体制や社会構造に対する根本的な変革を目指しました。
- 内ゲバや独自のイデオロギーの追求: 日本の新左翼運動の中では、異なるグループ間での激しいイデオロギー的対立(内ゲバ)が存在しました。東アジア反日武装戦線は、そのような対立を超えて、独自のイデオロギーを追求し、具体的な行動を通じて社会に影響を与えようとしました。
- 社会的・政治的不満: 戦後の高度経済成長による社会の変化、政治的な不正や不平等、国内外での不安定さなど、多くの社会的・政治的な不満が積み重なっていました。これらの不満が、組織のメンバーを激しい行動に駆り立てる原動力となりました。
結局のところ、東アジア反日武装戦線の行動は、これらの動機と目的に基づいて計画され、実行されました。しかし、その極端な手段と犠牲者を出す結果は、広く社会からは批判され、多くの議論を引き起こすこととなりました。
言ってることは分かるんですけど、流石に思想が強すぎますよね・・・。
まとめ
今回は、今現状の話しというよりは、元々の組織ついて調べさせていただきました。
今回色々含めようとしたら、とんでもない文章量になってしまいそうなので、ちょっと整理が付いたら彼らの起こした事件だったり、その被害内容、どういった意図があったのか?等を掘り下げてみたいと思います。
コメント